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決断をためらう明智光秀の、背中を押した影の男とは?
「ときは今天が下しる五月哉」。挙兵三日前、愛宕百韻で本能寺急襲のひそかな野望を詠んだといわれる光秀だが、いまだこのとき、謀叛を決断していなかったことが新発見の書状で明らかになった。そんな光秀を追いつめた張本人はいったいだれ!?
足利将軍か、朝廷か、はたまたバテレンか。黒幕説飛び交うその裏で、一人の男の影が浮上した。斎藤利三。他家を出奔し明智家家老にまでなった勇者には、信長を許せない複雑な事情があった。長宗我部元親、三好康長、羽柴秀吉、織田信孝。四国情勢をめぐって濃密に絡み合う人間関係に、翻弄される光秀、そして信長の誤算とは!
【内容紹介】
第一章 信長と光秀の天正八年
第二章 破断への予兆
第三章 光秀を追いつめた信長の四国国分令
第四章 本能寺の変の仕掛け人、斎藤利三
第五章 「不慮謀叛」ついに決行さる
終章 本能寺の変とはなんだったのか
「ときは今天が下しる五月哉」。挙兵三日前、愛宕百韻で本能寺急襲のひそかな野望を詠んだといわれる光秀だが、いまだこのとき、謀叛を決断していなかったことが新発見の書状で明らかになった。そんな光秀を追いつめた張本人はいったいだれ!?
足利将軍か、朝廷か、はたまたバテレンか。黒幕説飛び交うその裏で、一人の男の影が浮上した。斎藤利三。他家を出奔し明智家家老にまでなった勇者には、信長を許せない複雑な事情があった。長宗我部元親、三好康長、羽柴秀吉、織田信孝。四国情勢をめぐって濃密に絡み合う人間関係に、翻弄される光秀、そして信長の誤算とは!
【内容紹介】
第一章 信長と光秀の天正八年
第二章 破断への予兆
第三章 光秀を追いつめた信長の四国国分令
第四章 本能寺の変の仕掛け人、斎藤利三
第五章 「不慮謀叛」ついに決行さる
終章 本能寺の変とはなんだったのか
四国の長宗我部氏と深く繋がっていた明智光秀。その繋がりの中心にいたのは、斎藤利三だった。安定していた四国情勢は、織田信長の四国政策の転換によって急変する。光秀の謀反は、ここにおいて決定的となったのか?
長篠の戦いでの織田信長軍、鉄砲三〇〇〇挺三段打ちの定説は近年、批判的な再検証がなされている。しかし、長篠の戦いにおいて「鉄砲」の意義がまったくなかったわけではない。定説に対する異論をふまえながら、信長「鉄砲戦術」の有効性の再検証を試みる。
籠城・野戦を問わず、真田幸村の軍才は他を圧倒していた。その才能は大坂の陣、真田丸での攻防で如何なく発揮される。真田丸における巧妙な築城、人心掌握術や、最終決戦での秘策や誤算の分析など、実戦から読み解く、真田幸村の築城・用兵術とは。
黒田官兵衛の長男、長政の家中精鋭「黒田八虎」。その中に後藤又兵衛基次がいた。深き宿縁で結ばれた黒田家から、又兵衛はなぜ出奔しなければならなかったのか。そしてその後の運命とは。数々の勇猛なる戦いぶりと大言壮語、最後の武人、後藤又兵衛の生涯。
大坂の陣でもっとも活躍した人物をあげるとすれば、それはもちろん真田幸村になるだろう。西洋築城術にも似た画期的な真田丸での攻防。大坂方最後の勝利、道明寺合戦。そして、徳川家康に肉薄した天王寺決戦。大坂の陣の花形、真田幸村、最終決戦!
分家の一つに過ぎなかった伊作島津家の忠良は、本宗家やその他の一門との激しい抗争を勝ち抜き、相州家の当主となり、次なる飛躍を準備した。そして忠良の嫡子貴久が、ついに本宗家守護職を奪取する。忠良・貴久、薩州統一戦。
徳川家康と鳥居元忠は切っても切れぬ絆で結ばれた君臣関係だった。家康との親密な信頼関係では、元忠の右にでる者はない。家康と苦楽を共にした元忠は、伏見籠城戦にて壮烈な最期を遂げる。「三河武士の鑑」鳥居元忠にせまる。また、家康の言行録を合わせて収録。
本能寺の変の前日、徳川家康は、堺商人らと茶会を開いていた。翌朝家康は、上洛の途次、信長の凶報を耳にする。領国から切り離され、主従わずか数十人。本国三河まで、苦難の伊賀越えがはじまった。家康らは無事に本国まで帰り着くことができるのか。
大坂の陣、大量の兵力が動員された合戦は秀吉自慢の巨城をしだいに削り取っていった。しかし、兵力の差以上に大坂方には決戦に敗北する決定的な理由が存在した。そして、大坂の陣に出没した三人の真田幸村の謎とは。せまる大坂の陣、最終決戦。
家康が小山評定後すぐに西へ向かわなかったのは?関ヶ原の戦いの前哨戦、岐阜城はなぜ、わずか二日で陥落したのか?小早川秀秋の松尾山占拠と寝返りは?定説に疑問を呈しながら、間近に迫った関ヶ原の決戦を前に繰り広げられた諸将の戦術・戦略の謎を読み解く。
織田信長と反織田勢力の四余年に渡る争い、いわゆる「元亀争乱」。反織田勢力の中心であった朝倉・浅井勢は信長打倒を目前にしながら、なぜその息の根を止める事ができなかったのか?朝倉・浅井側からみた「元亀争乱」。反織田勢の限界を探る。
当時の政治状況に配慮しながらも、豊臣秀吉は着実に官位昇進を遂げ、ついに関白に任官される。信長時代よりも朝廷と一体化し、天皇権威を利用した秀吉の対朝廷、官位戦略には、一体どのような意図があったのだろうか。山崎合戦後の秀吉と朝廷の関係にせまる。
天正十年(一五八二)五月二十九日、織田信長は安土を発ち上洛の途についた。京滞在期間は、五日間の予定であった。これが信長にとって運命の五日間となる。六月二日早暁、本能寺炎上。明智光秀の謀叛は成功した。光秀を中心にみる本能寺の変の前後事情。
関ヶ原の合戦は遠く奥州にも波及し、激しい攻防戦を巻き起こした。関ヶ原合戦時、東軍側についた伊達政宗は、混乱に乗じて野心をむき出しにし、また大坂の陣では、大鉄砲隊を率いて現れた。そして朝鮮出兵。合戦にみる伊達政宗。
上杉謙信の泣き所は、その領国において、国人領主を主従関係に編成できなかった所にある。上杉家に叛逆した国衆三人、北条高広・大熊朝秀・本庄繁長を取り上げる。また、織田信長を幾度も裏切った戦国時代の梟雄、松永久秀の意地をみる。
徳川家康はなぜ息子・秀忠の軍勢を待たずに開戦に踏み切ったのか?桃配山の布陣の実態は?剛勇毛利秀元が選んだ、島津以外の、もう一つの「退き口」とは?遂に開戦した関ヶ原の戦い。定説に疑問を呈しながら、決戦場に残った三つの謎を読み解く。
守護権力の再統合を成し遂げた島津氏にはまだやらなければならないことがあった。地元に根をはる国人衆との対決である。「南九州の桶狭間」と呼ばれる木崎原合戦に迫るとともに、島津家久・忠辰、二人の武将にクローズアップした二編を合わせて収録。
織田信長によって整備された情報インフラは、奇しくも本能寺の変報を、瞬く間に全国へと伝えることとなった。世紀の政変は、いつ、どのようにして各地へ伝えられたのか。戦国時代の情報網の速度と精度を検証する。
上杉景勝の執政・直江兼続と、豊臣政権の行政官・石田三成。関ヶ原合戦時、兼続と三成が東西に呼応して徳川家康を討とうとした、との説がある。家康から征伐の対象となった景勝・兼続と、豊臣政権を守ろうとする三成。関ヶ原合戦、共闘の実態とは。
天下統一を果たした豊臣秀吉の次なる野望は朝鮮侵略だった。李如実が率いる明軍に辛勝した碧蹄館の戦い、苛烈な籠城戦となった蔚山城の戦い、小西行長らの撤退を目的とした露梁海戦の3編を収録。
悲願の将軍任官を果たした足利義昭だったが、その後待っていたのは、信長との確執、そして京からの追放であった。摂関家筆頭の名門の生まれながら、武家に憧れ、戦陣に従軍したという異色の経歴の持ち主、近衛前久。戦国を生きた二人の流浪の人生をみる。
大坂の陣の花形といえば真田幸村である。それは単に家康を追いつめただけで得られた名声ではなかった。巧みな家臣団構成、大坂陣中における的確な判断。その才能を、徳川方も見逃さなかった。そんな中、一体誰が幸村の心を読み違えたのか。幸村関係3編を収録
なぜ石田三成は大垣城を捨ててまで関ヶ原で野戦に挑んだのかなど、関ヶ原合戦の西軍にまつわる四つの謎について徹底解説。三成が企図していた驚くべき戦略と、西軍敗北の原因が見えてくる。
天正十年、本能寺に宿泊中の信長を明智光秀が急襲した。父を救うべく動きだした信長の嫡子織田信忠だったが。織田一門のなかでも、その地位が決して高くなかっ神戸信孝。国持になる夢を実現せんと四国渡海の行動にでるが。信長の二人の息子にせまる。
豊臣秀吉に、軍師型参謀というよりも大名や天下人的な資質であったと評された、上杉家の名参謀、直江兼続。幼き頃より、上杉景勝と切っても切れない一蓮托生の関係であった兼続は、いかなる人物だったのか。天下人的資質を内に秘めた男の生涯にせまる。
「奥州五十四郡、伊達探題」。伊達政宗の行動原理の根底には、伊達家こそが「奥州の覇者」であるという強烈な自負心があった。政宗の曾祖父稙宗の婚姻外交策、晴宗の「伊達・田村同盟」、政宗の「伊達・北条同盟」。政宗を中心に、伊達家四代の連合構想にせまる。
北条氏康が勢力を拡大するにつれ、名目ばかりとなった「関東公方―関東管領」体制。しかし、いまや古くなった支配体制を再構築しようとするものが現れる。上杉謙信である。もはや何の実権ももたない管領職を、謙信はなぜ欲したのか?
豊臣秀吉による「惣無事令(私戦禁止令)」の発動で、島津氏の豊後侵攻は、秀吉との全面対決を意味する事となった。逡巡の末、島津義久は筑前侵攻を決意する。しかしそこで、高橋紹運の執念を目の当たりにする事になる。激戦!岩屋城。
生涯妻を娶らず、側室もいなかった上杉謙信には、実子はなく、四人の養子がいるだけだった。そのため謙信の急死によって家督を巡る相続問題が発生した。他の戦国大名の後継問題を参照しながら、上杉家の相続問題の背景を探る。