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ブッダの言葉については、『ブッダのことば―スッタニパータ』などの良書がたくさん出ています。「犀の角のようにただ独り歩め」。とても素敵な言葉ではないですか。これは他人の評価など気にせず、自分を信じて、ただひたすら一人進んでいこうという、ブッダの美しい生きざまを表現しています。これらの書物から自分にふさわしい問題を切り取ってきて、検討するのは大切なことです。しかし、古い書物なのでなかなか現代人には伝わりにくいところもあります。そこで今回は、私たちにとって超リアルなお悩みをリストアップ。ブッダが日頃弟子たちに言って聞かせていた言葉などを中心に、現代まで受け継がれてきたブッダの遺産、つまり仏教のエッセンスを取り込んで、人生の危機の際、「こんなとき、ブッダだったらどう言うんだろう!?」という仮説を再現してみました。
人間関係の不安、仕事の不安、恋愛の不安、将来の不安。それらの不安の中身に必ずといっていいくらい潜りこんでいるのが、罪悪感と自己嫌悪です。たとえば、誰かに憎まれているという場合、「自分が何かをしでかしてしまった」という心配があなたを苦しめます。しかし、「私たちの罪はすでに許されている」のです。親鸞の世界から見てみませんか?
フェイスブックなどのSNSに、過剰に自己宣伝、自己アピールを書き込み、周囲の人々をゲンナリさせる。友だちや「いいね」を増やすことばかりに夢中になって、いやらしい発言を繰り返す。ツイッターのリツイートを狙い、エグいつぶやきを繰り返す。さあ、人はなぜ承認されたいのか、特に最近の「認められたい病」に冒された人々の過剰な承認願望の根底にあるものをズバリ、申し上げましょう。それは自己愛です。情報をシェアする、共有する、つながるなどと、小ぎれいなことをのたまう方は多いです。しかし、その行為の深部にある人間の感情を探ってみると、そこには真っ黒な自己愛が横たわっています。ちなみに、これを仏教では、「無明」(むみょう)と呼びます。仏教のジャンルは広大で、心の平安を求めるためのさまざまなアプローチがあります。そのひとつに唯識思想(ゆいしきしそう)というものがあります。唯識とは、人間という存在が八種の「識」で構成されているという考え方です……。
仏教では、ものごとに「執着」するのをたいへん嫌います。なぜなら、この世の中に、絶対的なものは存在しないからです。お金、名声、地位、果ては愛まで。すべては一時、力を発揮しますが、必ず終わりが来るのです。憎しみというものもまたしかり。人間、永遠に憎しみ続けられたら、気が狂ってしまいます。憎い人も必ずあなたの前から消え去りますし、あなたの心からも消え去ります。これを仏教では、「無常」と言います。